18年目の「ラヴ・レターズ」

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今年の最後にブログを更新しておきます。少し前になりますが、加藤健一と久野綾希子による「ラヴ・レターズ」(12月13日/ル・テアトル銀座)に観に行きました。
90年から始まった「ラヴ・レターズ」は、アンディとメリッサの50年以上にわたる手紙のやりとりによる朗読劇です。舞台には椅子が2つあるだけで、事前の読み合わせを一度した出演者が戯曲を読んでいきます。

90年の最初の公演から数えると、僕はもう何回観たことでしょう。組み合わせが違うことによって、まったく別の印象のアンディとメリッサになる。それがこの芝居の素晴らしさですね。でも18年も続くとは思ってませんでした。始まった頃はまだ「セゾン」と「セゾンの渋谷」が輝いていた時代で、そのPARCO劇場はその流行の中央に位置していたと思います。もう時代は変わってしまったけど、「ラヴ・レターズ」は続いていく。翻訳の青井陽治さんが言うように出演者も観客も代替わりしつつあるように感じられるけど、それがロングラン芝居の素晴らしさだと思います。

アメリカではどうなんでしょう?公開当時のリアルタイムに繋がる物語だし、ボストンとニューヨークを中心とした当時の東部エスタンブリッシュメントのローカルな世界と話題なので、かえって本国( というかニューヨーク)では他の新しい芝居との競争により難しい気がしますが。。。

この「ラヴ・レターズ」に見られる「1行だけ」の手紙のやりとりは、現実には成立しないことかも知れず( 少なくとも日本では)、90年代前半においてはファンタジーのような物語とも言えました。僕はいつも同じ人と観に行っていて、もともと彼女との連絡方法は電話と手紙の併用だったので、「ラヴ・レターズ」に影響を受けてからは「3行だけ」という手紙もたまにはありました( ただし僕はアンディのような筆まめな人間ではないですけど)。

しかし、電子メール、とりわけ携帯メールが一般化すると状況は逆転。皆がアンディとメリッサの様に「1行だけ」のメールを送りあうようになり、届いていない可能性やタイムラグによるゆっくりとした時間のコミュニケーションはなくなりました。直ぐに返信がないと少し不満を憶えるようになり、一つ一つの言葉の意味や価値は軽くなっています。個人的には、口下手だしかといって手紙を出すとなると僕の世代の連絡手段としては重すぎるため、電子メールの時代になってコミュニケーションの方法と伝達対象の世界が広がったことは歓迎しているのです。しかし、アンディのように言葉を選んで相手に自分を伝えるということは、18年前とは逆の意味で成立しなくなってしまいました。

いやみに聞こえるかも知れないけど、僕は、文章を書くことが好きです。作文も好きだし、手紙も好きです。特に君に書く手紙が。お母さんへの手紙だって、君が読むと思ったから書いたのです。ここにいない君に、話しかけているような気がします。しかも、君は口をはさめない。(良いでしょう?) 父は、みんな、もっと手紙を書くべきだと言ってます。手紙は滅びゆくアートです。父は、手紙こそ、自分を伝える最善の方法だと言います。僕も同感です。

現在だったら「口をはさめて」しまいます。この文章は40年代の手紙なのですが、既に「滅びゆくアート」なんですね( 戯曲が書かれた89年当時はまだ電話しかないはずですけどね)。

加藤健一と久野綾希子の組み合わせは、15年くらい前に観ています。その時の喋り方や声色もかなり覚えていたので、今回、変わったと感じられた部分も結構ありました。お互いに年をとったということなんでしょうけど、青年期の活発さや色気がなくなったかわりに、50代になってからが良かったですね。また、この2人でも数年後に観たいと思います。

ちなみにPARCO劇場といえば、今年はこんな芝居にも行きました。永作さんキャスティングを前提にした話らしいのですが、うーん。本谷有希子好きなんだけどな。