私という病

やっと文庫本になったので読んでみました。中村うさぎさんのデリヘル体験記という体裁をとりつつ、彼女の自意識(女、性)についての苦悩が書かれています。

私がホストに奪われたものとは、要するに「性的強者」のプライドである。「金を取ってセックスさせてやる」のが「性的強者」であり、「金を払ってセックスしていただく」のが「性的強者」だ、という価値観が私の中に(つーか、多くの女たちの中に)厳然としてあって、若い頃には金銭の授受はないまでの疑いもなく「性的強者」であったはずの自分が、ホストに大金を貢いだ挙句に嫌々ながらのセックスをしていただくという屈辱的な体験によって、「性的弱者」に成り下がったババアの現実を否応なく目の前に突きつけられてしまったワケだ。 (中略) そこで私は、「性的強者」の立場とプライドを奪い返すべく、まさしく「金をとってセックスさせてやる」ことを生業とするデリヘル嬢になったのだ。

他の国は知らないですけど、日本社会では若い女性は「大事にされ」「賞賛され」「ちやほやされ」ます。少し可愛かったり綺麗だったり、胸が大きかったりすると尚更です。若くなくなれば、男性は徐々に関心を無くし始めるんですけど、女性が扱いの違いの変化にどう傷ついているかなんて、気にしてません。というか、「当たり前だろ」と多くの男性は思ってるわけです。
僕個人の考えでは、あくまで「若い女性」の時代が特別に加点されて評価されるのであって、その後は男女に関係なくその人固有の魅力で評価される、ということになります。普通の男性にはアドバンテージのある時期がないので、一緒になるわけです( 中村作品によく出てくるホストの様な年下の男だってちやほやされてはいるけど、多くの男性には関係ない気がします)。
とは言うものの、「魅力があっても性的対象ではない」と言われてしまっては中村さんは困るわけなので、そう簡単に認められないですよね。これは男女問わず誰でも同じです。
本書の内容のうち、デリヘル部分は前半の一部で、後半は彼女の実体験も含めた男性への怒りと自意識が分裂する「私という病」が中心です。

私たちは、自分を肯定したいのである。社会的にも性的にも人間的にも「私はこれでOK。ちゃんと、周囲の皆に認めてもらっているわ」と安心したいのである。 (中略) 私たちは、若い頃と変わらぬ「性的役割と価値」の確認を求め、そのうえに「社会的役割と価値」「プライベートな役割と価値」も必要とし、年を取れば取るほどきわめて欲深な自己確認欲求に身を焦がす羽目になっているのである。特に男に比べて「性的役割と価値の確認」の場が少ない女は、不自由な枷の中でもがき苦しむことになる

僕のブログによく出てくる自己肯定の話です。個人的には、周囲の「皆」に認めてもらう必要はないし、困難だと思いますが、そういう感覚が大切だというならわかります。それから、「性的役割と価値の確認」の場として、男性には浮気や風俗が社会的に容認されているのに対して、女性は不自由だということですが、確かに社会的な非難の度合いについてはそうですし、年齢が高くなると確認の場は少なくなる気がします( と言っても個人差が大きいなあ)。

このように、男は「セックスを連想させる女」「性的欲望を刺激する女」に対して、己のセクハラ行為を堂々と正当化し、あまつさえ「誘惑する女が悪い」と断罪さえする生き物である。ミニスカート程度でこれなのだから、「デリヘルやりました」などと公言した女に対しては、それこそ「セクハラ」「断罪」し放題、である。

そういう男性が結構いるらしいことは僕も感じます。でも、生きてきた周辺で確認した例は少ないから、彼女が感じている程は多くないのでは?と書くと、お前は男だから、具体的な被害を受けないからわからないのだ!と言われそうですね。セクハラ冤罪により被害を受ける心配の方しか考えてないのが実感です。
単純に考えてセクハラって、自分の家族( 妻や娘や姉妹)が受けても問題あると感じられる発言や行動はしなければいいのに、と思います( デリヘルは無くてもミニスカートならあるでしょう)。僕も見ることはしますけど。
誰にだって、建前はともかく職業差別意識( というか序列)というものはあると思います。ただ、昨日まで知人として付き合っていた、作家として知っていた人を、風俗で働いたからといって見下すというのは、人間・作家として尊重していないのでしょうね。具体的に何か被害を受けたならいざ知らず。

私の場合だと、「女であること」に肯定的で、男たちから女として扱われることを喜ぶ「お姫様」な自分。そして一方、「女であること」にウンザリして、男たちからの女扱いを拒否する自分。どちらかが、嘘をついたり無理しているワケではない。どちらも本当の「私」なのだ。時々、この正反対の「私」が喧嘩して、自分で自分がわからなくなってしまうことがある。

何度も別の文章で繰り返されていますが、苦悩の問題はここにある感じです。「男たちから女として扱われることを喜ぶ」存在は、性的対象でもあり、場合によってはセクハラの対象でもある。1人の人間として扱って欲しいけど、1人の女として性的対象としても扱って欲しい。両立するとは限らない。これに対して一般に男性の側は、大部分は対象なんだけど、一定の基準で見た目や年齢により選別している感じです。だから、外れてしまったと感じた人の疎外感は大きいのでしょう。「性的強者」だった時代の無い人(当然、僕も含みます)にとって、外れているのはデフォルトなので、そこまで感じないんですが、個人差があると言われればそれまでです。
たぶん、中村うさぎさんは自意識が過剰も過剰で、普通の女性が「女とはそういうもの」として感じないか、あきらめてしまっていることまで気になってしまう。かなり生きにくいとは思いますが、作家として、人間として誠実だと感じています。
長くなったので、また。